氏 名
中野 清香
 所 属
戦友会員
 掲 載 日
令和04年01月31日
表 題

 4.「留魂砂」趣意書

本   文 

<戦場は悲惨にして、遺骨も遺髪も収容しえず、無限の恨みを残したり。
ガダルカナル最後の日、水色鮮やかなる海岸の真砂をすくう。
英霊よ天下りて、サンゴ美しき海岸の妙にこもり給え。
我等はこの砂を奉じ、ふるさとの父母に見参し奉らん>

(これは第十七軍がガダルカナルを撤退する時に採取した海岸の砂を、戦没者の遺骨の代わりに「白木の箱」に納め、添えて遺族に届けられた趣意書である)

 東部ニューギニア長崎戦友会の私共は毎年、長崎県護国神社の春季例大祭と、秋の大村忠霊塔における長崎県戦没者追悼式に参加しておりますが、式典終了後ニューギニアで採取した砂を、ご遺族にお配りしてきました。式典に参加されたご遺族が喜んで、掌を合わせ拝むようにして持ち帰る姿を見て、「国から渡された白木の箱には何が入っていたのだろう」と痛恨の思いであった。東部ニューギニア戦末期の戦没者のご遺骨の殆どが帰国してないと思う。ご遺骨の箱には「開けないように」と注意書きが添えてあったと聞く、せめて上記ガダルカナルの様な「趣意書」でも添えてあったら、ご遺族も慰められたであろうにと思うと残念でならない。

 私は部隊の戦没者名簿を繰るたびに、駐屯地や宿営地で戦没した者は別として、戦争末期の移動中に落伍した兵(当時は遅留兵と呼んでいた)の死亡場所や死亡月日が何を根拠に記載されたのか、果たして正確なのか疑問に思うことがある。当時連隊本部で戦没者関係の業務に携わっていただけに、その患いを深くするのである。
 負け知らずだった北支での戦闘や、上陸直後の東部ニューギニア作戦では、部下や戦友の戦死を確認して報告できる者が必ずいたものである。しかし戦況が苛烈になり体力も極度に衰えた転進中に、看取る者もなく山野に骨を晒した英霊たちの命日が、正確に分かる筈がない。戦場での報告や、戦死公報には推測によるものが多かったのではないか。当時の政府は戦死の公報にも随分手間取り、遺族への通知も遅れたのであろう。終戦後に第十八軍の残務整理班(伊豆の伊東で作業していた)にも遺族からの問い合わせが殺到した様である。終戦の八月十五日を迎えるたびに英霊の無念さやご遺族の悲憤を思うと胸の痛みを覚える。

                              合掌

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