氏 名
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中野 清香
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所 属 |
戦友会員
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掲 載 日 |
令和04年01月31日
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表 題
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3.千鳥が淵戟役者墓苑について |
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本 文
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千鳥が淵戦没者墓苑は昭和34年3月に建設された、国立の「無名戦没者の墓」である。現在この墓苑には先の大戦の間に海外で亡くなられた戦没者の御遺骨のうち、ご遺族にお渡しできなかった約三十五万柱のご遺骨が納められている。 竣工当時は「六角堂」中央の陶棺に各戦域の遺骨が象徴的に納められるとともに、大部分の遺骨はその下に造られた納骨堂に奉安された。 しかしその後、「六角堂」の地下納骨堂の余裕が少なくなったため、平成3年に、「六角堂」の奥正面の地下部分に納骨堂が造られ、更に平成12年にこれが拡大増設された。その後、この「増設納骨堂」について、遺族等からいろいろな意見が出されたので、厚生省及び環境省は、国立の納骨施設としてより良いものとするため、六角堂と増設納骨堂の一体感や、墓苑全体の環境を統一するなどの改修工事を行い、平成15年3月に完成した。毎年5月の厚生労働省主催の追悼式では、新たに収集奉還されたご遺骨の納骨の儀式が行われ、また10月には秋期慰霊祭が執り行われる。この式典には皇族殿下をはじめ、内閣総理大臣ほか政府要人、ご遺族などが参列する。 この墓苑の地域には、明治10年、閑院宮載仁親王邸が新築され、後に皇族方が住まわれた。また墓苑敷地西側部分には、明治天皇の初代侍従長徳大寺公爵邸や内大臣の邸などがあったが、これらの御殿は昭和20年の空襲により焼失し、昭和34年に墓苑が建設されるまで此処は焼野原であった。 また墓苑の北隣りには、侍従長官邸があり、昭和11年の二・二六事件で、侍従長鈴木貫太郎海軍大将が安藤大尉率いる部隊の襲撃を受け、重傷を負った現場である。 さらにこの周辺は幕末から明治初期にかけて、国事に奔走した志士や政治家たちにとって由緒ある地域でもある。 また千鳥が淵の桜は有名で、毎年数十万人の花見客で賑おう所である。この桜は、千代田区によって昭和32年ごろに植えられた染井吉野で、その数は130本に及んでいる。これらの桜は、それから40数年を経た今日、一抱え以上の大樹の並木となり、それぞれ言うに言われぬ風格を具えて、大きな枝を濠の方に伸ばしている姿が実に美しい。対岸のお濠の法面に植えられた150本の桜と相まって、千鳥が淵のお濠は正に桜で埋め尽くされる。また仄かなぼんぼりに照らしだされる夜桜は更に見事で夜桜見物の人出で賑やかである。 |